久しぶりに映画を観ました。
ここ最近ぼんやりしている私を見かねて「リフレッシュに映画でも観たら?」とパートナーがおススメしてくれたので、それもそうだな、と観てみることにしました。
観たのはこちら。
『秘密と嘘』(Secrets & Lies) 1996年のイギリス映画。監督はマイク・リー。 第49回カンヌ国際映画祭で最高賞パルム・ドールと女優賞を受賞。 私生児の娘との関係がうまくいかず孤独を抱えていた女性が、過去の秘密を明らかにしたことで家族の絆を取り戻す様を描いたヒューマンドラマ。 徹底したリハーサルと即興演出でリアルに描き出す。 工場で働きながら生計をたてているシンシアは私生児の娘ロクサンヌと2人暮らし。早くに母親を亡くし若い頃から父と弟モーリスの世話に追われていたシンシアは友人もおらず、孤独から娘に干渉しすぎ、娘は反発して母娘仲はうまくいかない。愛する弟モーリスからの連絡も彼の妻モニカのせいで途絶え気味だと苦々しく思っていた。 ある日、シンシアはホーテンスという女性から電話を受ける。昔シンシアが出産後すぐ養子に出された娘だというホーテンスにシンシアは思わず電話を切ってしまうが、再びかかってきて「会って聞きたいことがある」というホーテンスに、戸惑いながらもシンシアは会うことにする・・・ ※映画ウォッチより
日本語版のトレーラーがなかったので英語版を。
何の予備知識もなく勧められるままに再生ボタンをポチっと。
蓋を開けてみれば142分という長編映画で、貧困、差別、嫉妬、憎悪など、かなりセンシティブなテーマを含んでいるので、リフレッシュになるような映画では全くなかったのですが。笑
それでも観てよかったな、と思える素晴らしい作品でした。
ここ数日、女性の繊細さや傷つきやすさはどこから来ているのか、ということを考えていました。
わたし自身、幼少期から情緒不安定であるがゆえに感じてきた痛みや、社会に適合できない違和感のようなものが上がってきていて、ちょうどそのテーマと合致する内容でした。
一部ネタバレもありますが、感想を含めて私が感じたことを書いてみようと思います。かなり突っ込んだ内容ですし、書くことには勇気がいりましたが、必要な人に届くといいなと思います。
女性の繊細さと出産について思うこと
主人公のシンシアは、幼くして母親を亡くし、10代から生活のために仕事に出て、父親や弟の世話をしてきました。中年になった今は工場で働きながら、雨漏れする古いアパートで、もうすぐ21歳になる娘ロクサンヌと二人で暮らしています。
人として、女として、当たり前に愛され、幸せを感じられる日々を願いながら、それが叶わない境遇を嘆き、感情の赴くままに周囲に八つ当たりして、親しい友人も持てず孤独に生きるシンシア。
こういう情緒不安定で依存型の女性は、「メンヘラ(精神的に不安定で自分のことで周りを振り回してしまう様子)」というレッテルを貼られて、人からも社会からも嫌われる存在になりがちです。
実際、映画レビューを読むと、「シンシアにイライラする」「最後まで見ていられない」「とにかくむかつく」などのコメントが多くみられました。

けれども、本当にそうだろうか。
彼女がそうなってしまうのはなぜだろう?ということに目を向けると、その「レッテルを貼る」という社会構造にも問題がある、という視点が見えてきます。
現代社会と女性の関係性は、すべてがそうとは言えないけれど、どうしても女性の立場が弱くなりやすい傾向があります。
なぜなら右肩上がりで発展していくことを目的とする効率重視の社会では、女性の「繊細さ」「情緒不安定さ(感情的であること)」「出産」というものは、不確実すぎて受け入れられないから。
例えば企業においての初任給をみても、同じ年齢や学歴であっても「男女」に違いがありました。それは結婚や出産をして退職したり休業したりする女性は、「右肩上がりに発展していく効率重視の経営」にとって不確実要素であるから、初任給が安い、ということもあるだろうと思います。
いくら建前で「男女平等ですよ」と言われても、実際の社会構造は決してそうはなっていない。自分が肌で感じること、建前として言っていること、社会の現実、社会が建前として言っていること、それぞれすべてが違っていて、何が本当で何が嘘なのか分からなくなっていく。
そんな中、社会はロジックで納得させようとするから、「私がおかしいのではないか」「私が弱くてダメなんだ」と思わされてしまうこともあります。
そうなると、社会的立場の弱い女性は、自分が感じている憤りや悲しみに対して、「私が弱くてダメなんだ」「社会に適合できない私がダメなんだ」と自分を責め続ける思考パターンになっていく。
あるいは男性を批判することで闘ったり、社会的立場を手にして対等になろうとすることもあるでしょう。
いずれにしても、私たちはどこかで違和感を感じている。
そもそも雄大で女神のような存在であるわたしを、私たちはどこかで知っているからこそ、そのわたしが女性という肉体を持つことで、社会の中では認められず、むしろメンヘラの困った異分子として扱われてしまうことへの違和感、憤り、悲しみを、多くの女性が内側に持っているように思います。
ここでお伝えしたいことは、女性の繊細さや傷つきやすさを社会のせいにするとか、被害者意識とか、悲劇のヒロインに仕立てるという意図はありません。
説明がつかない繊細さや感情の不安定さで悩んだり傷ついている女性はきっと多いし、それは社会構造がそうさせているという側面があることを知っておいて欲しいと思うから、書いています。その視点を得ることで、「自分を責める」ことにしか選択肢を持てない状況から自由になり、ものごとを俯瞰して捉えたり、本当の原因を観ていくきっかけになるといいなと思うのです。

女性としての肉体
わたしは幼いころから、わりと繊細で傷つきやすい子供で、ささいなことで怒ったり、死にたい気持ちになったり、他者からみればどうでもいいような小さなことで深く傷つき、なぜダメなのか分からないまま叱られ罰を与えられ、自分が悪いと責める、というような体験を重ねてきました。
そのような傷ついた心にとって、愛される体験は喜びを感じるし、傷が癒されるように感じて、更に愛されることを求めていきます。
どうしたら愛されるだろうと考え、愛されるために時には自分を偽って行動するようになる。
そうすると、満たされるどころか求めれば求めるほどに空しくなり、いつまでたっても空虚な感覚が消えないんですね。
これには「自分を偽って」というところに原因があるように思いますが、一方で「女性としての肉体」が大きく影響していると感じています。
思春期から、男女ともに身体の構造が大きく変化していき、女性は胸が膨らみ月経が始まり、出産し子供を育てられる身体に成長していきます。その身体は肉欲的で美しく、男性の性的欲求の対象になる。
女性としての肉体を持つことで、痴漢にあうなど性被害を被った女性もいらっしゃると思います。わたしも何度もあります。お付き合いしているパートナーに合意なく押し倒される、食事やデート代をご馳走した見返りに性交渉を強要される、という体験も含めて。
そのような場合、ときに社会の反応は「そんな服装をしているあなたが悪い」とか「男性とはそういうもの」「2回目3回目のデートならそうなって当然」というような理由で納得させようとしてくることがあります。
「わたし」という一人の人間が置き去りにされ、性的対象としてだけの存在で扱われる体験は、さらに深く心を傷つけます。この感情は、集合意識として潜在的に持っている感情だと思います。
「性的対象としての女性」「取引される肉体」という感覚が通奏低音のように響いている。

また、愛されること、認めてもらうことを求める女性にとって、愛される実感をセックスに求めてしまうことはあると思います。肉体のつながりは強烈な快楽を伴うものだし、二人だけの密な関係だからこそ特別な気持ちにもなる。
シンシアは寂しさゆえに愛を求めた異性との関係で子供を授かりました。そして、相手の男性は何も言わずに消えてしまった。
結果的に自分で自分を大変な状況にしてしまった体験は、「寂しさ(弱さ)」を一時しのぎの快楽で満たそうとしたことへの「自責の念」として、「自分を大切にできない罪悪感」として深く刻まれていく。
そしてその根っこには、「自分を偽って」というキーワードがあったように、「本当のわたしは愛されない」というつらい思いがあるように感じています。
こういうことを言うと、女性だって男性を傷つけている、などの批判が上がりそうですが、大切なことなのでもう一度お伝えしますが、このことを被害者意識で持ったり、男性を批判する、という方向で持つのではなく、どうすれば事実を受け入れて解決策を見出し、傷ついた女性性を癒して幸福を感じながら強く美しく生きられるのか、という在り方に目を向けるきっかけにしていきたいのです。

真実を生きる勇気

このシーンは、シンシアが秘密を明かした場面。
娘のロクサンヌのバースデーパーティーで、友人だと嘘をついて紹介したホーテンスは、実は生まれてすぐに養子に出した娘であることを告白します。
その告白を受けて、娘のロクサンヌは混乱のあまり激怒し、家を飛び出します。
シンシアも娘を失うかもしれない恐れから、仕事で成功している弟の経済的恩恵を受け、何不自由なく幸せそうに見えるモニカに対する嫉妬が爆発して、攻撃します。
モーリスはモニカが子どもを産めない体であることに長年苦しんできて、過酷な不妊治療の影響で精神的にも肉体的にも衰弱し、離婚さえ考えたことがあったことを打ち明けます。
皆が心の内をぶちまける修羅場です。
なぜ、私たちは本心を隠すのでしょう。
なぜ、真実を言わない選択をするのでしょう。
それは、本当のわたしは愛されないと思っているから。 真実を伝えればすべてを失ってしまうと思っているから。
その根っこには、これまで述べてきた繊細さ、傷つきやすさ、社会的不遇、女性としての肉体におけるネガティブな通奏低音が響いている。
けれども、その響きがあることに気づけたなら、その音を響かせるかどうかは自分で選ぶことができます。
ホーテンスに向かってモーリスは言います。
君は勇敢だ。
苦痛を覚悟で真実を求めた。
本当の母を探し、会うことを決意したホーテンス。
「人生を変えるほどのことだからゆっくり考えて」とソーシャルワーカーに忠告されましたが、たとえ今あるものを失ったとしても、真実を求め、受け容れ、許し、前に進もうとしたホーテンスの勇気に対して、モーリスは賞賛の言葉を送ったのでした。

真実を求めることは勇気がいります。 感じているのは恐れだけではなく、相手を傷つけまいとする優しさがあり、私を守ろうとする私がいる。
けれども、自分を偽る生き方の先には、乾いた虚しさしかありません。 それよりも、真実のわたしで、勇敢に生きていくことを選びたい。
そこには今あるものを失うかもしれない恐れや、変化していくことへの戸惑いがあるかもしれません。それでも私たちは、本当はどちらを選ぶほうがいいのか、いつもどこかで知っています。心の奥底で感じることもあれば、自分に言い訳をする苦さや後悔で気がついたり、ドキドキしたり、胸がキュッとなったり、そういう体感で知ることもある。
もしくじけそうになったら、同じ思いで苦しんだり、迷ったり、勇気をもって進もうとしている同士の存在に意識を向けてみる。 そして、そもそも雄大で女神のような存在であるわたしを思い出してみる。

ラストシーンで、シンシア、ロクサンヌ、ホーテンスの3人は、アパートの庭でお茶を飲みます。 「人生っていいわね」
シンシアのひとことが、胸に沁み入りました。
大丈夫。わたしたちの内側には、強く美しく輝く光がある。
その光を見出せるのは、わたしだけ。
